2020-02-14 第201回国会 参議院 本会議 第5号
前年の平成六年に自社さ政権として与党に返り咲いてはいましたが、当時の河野総裁は、与党第一党の党首ながら総理ではなく、社会党の村山総理を支える立場でありました。 山口県選挙区では、六年前の参議院選挙で当選された社会党の現職がおられましたが、与党の現職がいるとはいえ自民党の候補を立てないわけにはいかないということで、白羽の矢を立てていただいたのが当時まだ留学中でありました私でございました。
前年の平成六年に自社さ政権として与党に返り咲いてはいましたが、当時の河野総裁は、与党第一党の党首ながら総理ではなく、社会党の村山総理を支える立場でありました。 山口県選挙区では、六年前の参議院選挙で当選された社会党の現職がおられましたが、与党の現職がいるとはいえ自民党の候補を立てないわけにはいかないということで、白羽の矢を立てていただいたのが当時まだ留学中でありました私でございました。
そういうことと、また選挙制度で中選挙区から小選挙区に戻す、そのときに当時の総理と総裁と一緒になって、細川総理そして河野総裁で合意して小選挙区を決めたときに、資金管理団体だけ五十万円だけにする、こう決めました。 ところが、五十万円に決めたのは五年間で、その後、企業・団体献金の見直しと言いました。それで見直したんです。
このときの報告書には、民意の反映と民意の集約という言葉を当時、自民党は河野総裁、日本新党の細川首相の両方の合意文書、一九九四年の一月の文書に出てまいります。この民意の反映と民意の集約というのは非常にタクティカルな言葉で、民意の反映が選挙の原則なのに、民意を集約するんだと、小選挙区制は民意の集約にいいんだと、こういう議論でした。
そして、残念なことに、それこそ私は残念なことに、当時、土井議長があっせんで、細川総理と自民党河野総裁の間でいわゆる総理・総裁協議といいますか合意というのが行われて、一夜にして国会の正式の結論をひっくり返し、今の制度を誕生させました。そもそも制度の誕生自身に大きな問題があったということは言わなければなりません。しかし、そのことを経て、今のお二人が失敗だと反省していることが重要だと思います。
○佐々木(憲)委員 これは、当時、細川総理と自民党の河野総裁が合意した内容なんです。税金を受け取るというわけですから、ちょっと後ろめたさがあったんだと思うんですが、それで最大限四割ぐらいにしておこうや、こういう合意をしたわけですね。その後の協議で、法律では、三分の二を上限とする、こういうふうに一度書き込まれたんです。ところが、制度が導入された九五年十二月にはこの歯どめさえ外れてしまったんですね。
一つは、政治改革のときに両院協議会でどうしても意見を合わさなければいけない、そのときは参議院側が自民党が優位であったために、時の河野総裁とそれから細川総理とが協議をして、いわゆる比例部分の数の妥協点を見出したということがあるんです。
○麻生内閣総理大臣 おっしゃっている意味は、二大政党下における政権交代というのがあり得べしということで、小選挙区制がいいということで、当時さんざん議論をした結果、たしか細川内閣、我々はたしか河野総裁のもとで、雪の降る一月の十何日に、午前何時でしたかサインをして、結果的に小選挙区になった。
そのときに河野総裁と細川総理の会談へ持っていったんですよ。 我々、微妙なところまでやって、この部分だけ党首会談やらそうって言うたら、うちの党首だってわがままだけど、協議会が決めたらそんなもん一発でやるよ。だから、いろいろ知恵はあるわけよ。それは、協議会は議論をして終わるというんでなしに、今私、もろもろのこと申し上げました。緊急性も分かっている。給付金の問題もある。
しかも、その後にも、法案が成立した後も、施行前のさらなる修正があって、総総合意ですよね、与野党が真摯な議論を政治改革協議会を経て行って、最後は、細川総理と当時の河野総裁の間でサインを交わして、お互いが最後に万年筆を交換したという大変感動的な場面がありました。 私は、政治改革というのはかくあるべきだと思います。
で、このとき実は、両院協議会でもまとまらなかったんでありますが、両議長さんのあっせん等もありまして、当時の総理大臣の細川総理と自民党総裁の河野総裁が話合いをされまして、衆議院、参議院に提案をした内容とは異なる形で案を再度おつくりになって両院に提案をして今の法案が成立したと、こういう経過もございます。
それが、今度は平成六年の一月二十八日、細川総理と河野総裁との間の与野党合意によりまして、戸別訪問については禁止をするということになりまして、また現在に至っているわけでございます。
ところが、結局は、時の細川総理と、野党第一党だったわけですが、自民党の河野総裁とが話し合って、三分の二条項を使わないで決めちゃったんですね。形式的にしか使わなかったと言った方が正しいかもしれませんが、あれはもう参議院からするともっと怒ってよかったと思いますよ。 そういうことを見てきまして、結局は参議院の選挙制度をどうするかというところに行ってしまうんじゃないか。
これには経過があって、例の細川連立政権のときの細川大臣と当時自民党の河野総裁の合意の中で選挙制度が変えられたんですけれども、このときにも、初めは記号式にするという合意の原案が、直前になって、いろいろあって、自書式のままで削除されたというふうに、日本の文化論まで言われる方も含めていろいろ議論があるのは承知をしているんですが、やはりいろいろやっていくと、投票率は上がるし、無効は少なくなるし、開票は簡単になるしということで
○若松副大臣 ちょっと記憶が間違っていればお許しいただきたいんですが、平成六年ごろでしょうか、ちょうど、いわゆる現在の小選挙区比例並立制ですね、この合意に、たしか細川総理と、あと河野総裁ですかの大変歴史的な署名がありました。いわゆる議論に議論を尽くして、大変な大もめの中で、最終的にそういう形の合意を得て、今回の現在の選挙制度に至っている。
私は、そのころテレビで、非常に悲痛な顔をして、河野洋平それから細川護煕三者で会っていらっしゃる姿を見たんですが、土井議長の提案を受けて、同日の夜、細川首相と河野総裁との会談が開かれたが、両者の合意内容は土井議長あっせん案とは全く異なり、大幅に自由民主党に譲歩したものであった。 これは、二回戻しているんですね。
○岡田委員 例えば一九九四年に、これは自民党が野党の時代、河野総裁の時代でありますが、派閥を解消するということを党議決定していることがあります。ですから、過去にはそういうこともあった。 それでは、あなたがそれだけ、派閥政治が日本の政治をゆがめている、あるいは自民党の政治をゆがめているとおっしゃるんなら、どうして同じことが今決められないのか。
その当時のことは忘れもしませんけれども、二月十何日だったかと思うんですが、雪が降りしきる真夜中に、当時の細川総理と河野総裁が調印をして修正してやっと衆議院、参議院で成立した、そういうふうに記憶いたしております。 あれから既にもう六年ぐらいたちます。衆議院においては、平成八年に既に新しい選挙制度で選挙が実施されました。聞くところによりますと、来月、二回目の選挙が行われるだろうと。
かつて自由民主党が野党で苦しかったとき、今日の総理大臣、森幹事長、そして時の総裁は河野総裁でした。だから、私は、今、ぜひこのコンビで内政も外交も、二十一世紀に向かって我が国がどのように世界に向けてアナウンスできるか、そして日本の国民の皆さんがどれだけ勇気を出して——戦後五十年間、私たちは世界一のトランジスタ製品をつくり、今日なお世界一のエンジンをつくってきました。
○保利国務大臣 確かに、細川内閣、そして我が党は河野総裁だったと思いますが、お話し合いの上、これは成立をした、いわゆる三百、二百でいったということは、歴史的な経過としてございました。
○平沼議員 たしか一連のいろいろな問題がありまして、そういう意味で、当時の細川さんと我が党の河野総裁がそういう文章を書きました。そういう中で、我々はその精神は謙虚に受けとめなければならないと思っておりますし、また、我々としてはそれなりに一生懸命努力をしてきたところであります。